「毎日、仕事や家事に追われて、自分の時間なんてほとんどない」 「お寺の行事が大切なのは分かるけど、正直、参加する余裕がなくて…」
めまぐるしく変化する現代社会。私たちは、常に何かに追われ、情報を浴び、心をすり減らしながら生きています。そんな中で、「報恩講(ほうおんこう)にお参りしましょう」と言われても、「なぜ、今それが必要なのだろう?」と、その意義を見出すのが難しいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。
こんにちは。兵庫県丹波市の真宗大谷派 明顕寺(みょうけんじ)です。
それでもなお、私たちが「報恩講は大切ですよ」と皆様にお伝えし続けるのは、それが単なる古くからの「義務」や「しきたり」ではないからです。報恩講は、忙しい現代を生きる私たち自身の心を、豊かで健やかに保つためにこそ「必要」な、かけがえのない時間だと信じているからです。
この記事では、「報恩講の必要性」について、4つの視点からお話しさせていただきます。
目次
1. 「立ち止まる」必要性 ~心のスイッチを切り替える時間~
私たちは朝起きてから夜眠るまで、無意識のうちに思考をフル回転させています。仕事の段取り、家庭の用事、人間関係、スマートフォンの通知…。心のスイッチが、常に「ON」の状態です。
報恩講への参加は、この日常のスイッチを、意識的に「OFF」にするための絶好の機会です。
荘厳な本堂に身を置き、静かにお経の声に耳を傾ける。それは、強制的にデジタルデバイスや日々の雑事から離れ、自分自身の内側へと意識を向ける時間です。この「何もしない」「ただ受け取る」という時間が、常に緊張している心と体を解放し、リセットしてくれるのです。
2. 「感謝を思い出す」必要性 ~”当たり前”を見つめ直す時間~
私たちは、持っているものよりも、足りないものに目を向けがちです。「もっとお金があれば」「もっと時間があれば」。しかし、その思いは、私たちの心を渇かせ、不満を募らせます。
報恩講は、その名の通り「恩に報いる」、つまり「感謝する」ことを中心に据えた行事です。親鸞聖人が伝えてくださった仏様の教えに感謝することは、同時に、今自分がここに生かされていること、数えきれないほどの支えの中で生きていることへの感謝を思い出すきっかけとなります。
家族がいること、食べるものがあること、今日一日を無事に過ごせたこと。 普段は当たり前すぎて見過ごしてしまう、たくさんの「有り難い」ことに気づく。心のアンテナを「ありがとう」に合わせることで、私たちの世界の見え方は、驚くほど温かいものに変わっていきます。
3. 「教えを聞く」必要性 ~生き方の”物差し”を得る時間~
私たちは人生という道を手探りで歩んでいます。悩み、迷い、時には間違った選択をして後悔することもあります。
報恩講の中心には、ご住職による「法話」があります。法話とは、仏様の教え、そして親鸞聖人の言葉を、現代の私たちの暮らしに照らし合わせて、分かりやすく解説するお話です。
それは、人生の道しるべとなる「もう一つの物差し」を私たちに与えてくれます。自分の考え方や価値観だけを頼りにするのではなく、何百年もの時を超えて受け継がれてきた「人間の苦しみと、そこからの救い」についての深い洞察に触れる。それは、凝り固まった自分の心を解きほぐし、問題解決の新たなヒントを与えてくれる、貴重な「学び」の時間となるのです。
4. 「つながりを確認する」必要性 ~”独りじゃない”と感じる時間~
たとえ家族がいても、友人がいても、現代社会は時として私たちを孤独にさせます。
報恩講には、地域の方々が集まります。同じように手を合わせ、同じように法話に耳を傾ける人々の姿を目にするとき、「ああ、同じ教えを拠り所に生きている人が、ここにもいるんだ」という、静かな安心感と連帯感が生まれます。
それは、利害関係のない、ただ仏様の前で同じ時間を共有するだけの、温かいつながりです。自分は決して独りぼっちではない。その感覚は、困難な時代を生き抜く上で、静かですが、とても力強い支えとなります。
まとめ:報恩講は、未来のあなたのための時間
報恩講の必要性は、過去の伝統を守るためだけにあるのではありません。 それは、未来のあなたが、より心穏やかに、より感謝にあふれ、より確かな生き方の指針を持って生きていくための、「心の栄養補給」の時間なのです。
報恩講は、親鸞聖人へのご恩返しであると同時に、忙しい一年を過ごした私たち自身への、心のご褒美なのかもしれません。
明顕寺では、毎年11月に報恩講を執り行っております。その必要性を少しでも感じていただけたなら、ぜひ一度、お参りにお越しください。